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2011-05-19
福島第一原発事故の後演劇を創ることは・・・
ついに岩手県大船渡と陸前高田に災害のボランティアに行ってきました!私は、自分は舞台という生の人の体で表現する表現者だと思っている。表現することで社会と関わっていたい。(もちろん、日常生活でも社会と関わっていますが。)その表現者として存在し続けるために、この震災で現地に行って経験することは無くてはならないことだと思ったんだな。だって、考えても御覧。自分の住む国がここまでひどい災害を受けるなんて経験、一生に一度だよ。(一生に一度で沢山ですが。)阪神大震災の時は学生だったけど、諸事情で被害地に行けなかったのだ。人生で大切なことを手に入れないまま過ごした気がする。
舞台表現とは生の人のからだで表現することだ。今後、この震災の風景をからだに通していなくて、いったいどれだけの表現が出来るというのだ。映像や体験談などの情報から想像するだけでは単なる観念になりやすい。もちろん、演劇において経験主義は問題がある。良くある例えだが、殺人者の役をするには殺人をしなければちゃんと表現できないとなると大変なことになる。だが、殺したいくらいの感情を抱いたり、もう少しで殺しそうになるようなからだを経験していると、単なる妄想とは違う表現になる。また、映像や報道は他人のフィルターを通しているので、そこからの想像は手垢にまみれたものになってしまう。いわゆる、「セコハン」の情報は価値が低い、というのと同様である。自分で体験して自分のからだの一部にしたいのだ。
この震災が海外であり、遠すぎでなかなか行けないというならまあ分かるが、日本国内、しかも東京からさほど離れていない(うんと離れていても私は行っただろうが)場所であったのに、その状況を直に自分のからだに通さないなんてことはありえない。しかも私はフリーター。ここで行かなければ、何のためにフリーターになったのだろう。フリーターの良さはフリーであること。自由に表現活動が出来ること。もとい、自由に表現活動のための基盤を作れることでもあるのだ。
行ってみてどうだったか。詳細は次のブログで発表します。ただ、震災後ずっと感じていたことを改めて感じた。それは「東日本大震災と福島第一原発の後『演劇は人を元気にします』などと言うことは野蛮である」ということだ。むろんこれはアドルノの「アウシュヴィッツの後詩を書くのは野蛮である」のもじりである。確かに演劇は人を元気にする。だが、今回の大震災はどう災害と向き合うか、どう自然の中で生きていくかという、個人だけでなく日本という共同体のありかたを問われるものである。ましてや、どんどん事態がややこしくなる福島第一原発にいたっては、日本のエネルギー政策と社会構造と構成員のあり方の根本を見直さなければならない。そんななかで「演劇は人を元気にします」としか言えないなんて情けなさを通り越して被災者に対する残酷な発言である。・・・つまり・・・それでも、アウシュヴィッツの後も詩は創られてきたのだ。詩人は詩を創ることでしか存在できない。アドルノの言葉をかみしめ、自らの野蛮性を認識しそれと格闘し痛みに耐えながら、それでも詩を創った詩人だけが真の詩人であろう。これは、演劇人にも言えるのではないだろうか。
舞台表現とは生の人のからだで表現することだ。今後、この震災の風景をからだに通していなくて、いったいどれだけの表現が出来るというのだ。映像や体験談などの情報から想像するだけでは単なる観念になりやすい。もちろん、演劇において経験主義は問題がある。良くある例えだが、殺人者の役をするには殺人をしなければちゃんと表現できないとなると大変なことになる。だが、殺したいくらいの感情を抱いたり、もう少しで殺しそうになるようなからだを経験していると、単なる妄想とは違う表現になる。また、映像や報道は他人のフィルターを通しているので、そこからの想像は手垢にまみれたものになってしまう。いわゆる、「セコハン」の情報は価値が低い、というのと同様である。自分で体験して自分のからだの一部にしたいのだ。
この震災が海外であり、遠すぎでなかなか行けないというならまあ分かるが、日本国内、しかも東京からさほど離れていない(うんと離れていても私は行っただろうが)場所であったのに、その状況を直に自分のからだに通さないなんてことはありえない。しかも私はフリーター。ここで行かなければ、何のためにフリーターになったのだろう。フリーターの良さはフリーであること。自由に表現活動が出来ること。もとい、自由に表現活動のための基盤を作れることでもあるのだ。
行ってみてどうだったか。詳細は次のブログで発表します。ただ、震災後ずっと感じていたことを改めて感じた。それは「東日本大震災と福島第一原発の後『演劇は人を元気にします』などと言うことは野蛮である」ということだ。むろんこれはアドルノの「アウシュヴィッツの後詩を書くのは野蛮である」のもじりである。確かに演劇は人を元気にする。だが、今回の大震災はどう災害と向き合うか、どう自然の中で生きていくかという、個人だけでなく日本という共同体のありかたを問われるものである。ましてや、どんどん事態がややこしくなる福島第一原発にいたっては、日本のエネルギー政策と社会構造と構成員のあり方の根本を見直さなければならない。そんななかで「演劇は人を元気にします」としか言えないなんて情けなさを通り越して被災者に対する残酷な発言である。・・・つまり・・・それでも、アウシュヴィッツの後も詩は創られてきたのだ。詩人は詩を創ることでしか存在できない。アドルノの言葉をかみしめ、自らの野蛮性を認識しそれと格闘し痛みに耐えながら、それでも詩を創った詩人だけが真の詩人であろう。これは、演劇人にも言えるのではないだろうか。
2011-05-08
初めてのデモ
4月に初めてデモに参加した。脱原発(または反原発、または卒原発)の。本当に抵抗あった。今となっては笑い話だが、「怖かった」のだ。なんか「集団」に取り込まれそうで、嫌だったのだ。なんか「政治運動をやっている人は怖い」とかとにかくちょっとばかし近寄りたくないという感覚があった。このちょっとばかし、というところがあまりにも小ずるい。自分の卑小さを表している。
で、デモに参加するときも、なんか抵抗があって、いつでも逃げ出せられるようにとか考えていた。で、参加してどうなったかというと、まあ、当然ながら何もなかった。ほっとした。ただ歩き回って、途中のどが渇いたら列から離れてコンビニで飲み物買って(たくさんの人が買っていた。万単位で人が集まったから、かなりの店の売り上げに貢献しただろう)、終わったら解散して。警察の人にご苦労さまでした、お世話になりましたと声をかけてしまった。いや、つい癖で。少人数のグループで参加した人たちは、解散後飲みに行こうかとか声を掛け合っていたから、これまた周囲の飲食店の売り上げに貢献しただろう。まだ歩きながら、「原発やめろー」とか声を張り上げるのには抵抗がある。慣れていないし恥ずかしい。スポーツ観戦での応援だって恥ずかしくってなかなか出来ない。人の尻馬に乗ってちょっとするだけだったのだから。それでも、ただ歩くだけでも、アピール力はあるのではないか。行動するのは労力と時間を費やすのだから、単に内面で思っている以上にパワーがいるのだ。
今までの自分を変える第一歩である。これまでは、自分の考えをしっかり持つことは大切だが、政治「運動」はカンベンして、と思っていた。でもね、そうやって政治活動をしないで、単に内面を磨いているだけでは何にもならないんだよな。自分の思想を磨いて、周囲の人と会話(ええ、対話まではいっていなかったと思う)しても、所詮人は人、我は我。全く何もしなかったに等しい。まさに傍観者であった。傍観者を告発する舞台(例えば「お前にも罪がある」とか)を上演しながら、傍観者になっていた。教員時代、授業で生徒が自己の思想を磨くための材料を提供したけど、行動するよう促したり、行動の仕方について例を挙げたりしなかった。それは出来るわけがなかった。自分自身、行動の仕方を知らなかったのだから。今だってどうすればいいのか良く分かっていない。デモ、が何とか思いついたのである。しかしこれもいろいろと実践あるのみだろう。実践して、失敗して、工夫して、でも行動し続けること。実践と失敗の繰り返しという意味では恋愛と一緒だったりして・・・。・・・はあ。
社会的な舞台も上演してきた。(政治的ではなかったと思う、客観的に見て。)ただ、舞台とは、いくら社会問題を扱ってもそれそのものを直接的に扱うのに有効な手段とは私は思っていない。例えば原発問題なら、原発の具体的な危険性、利権、歴史などを扱うなら、舞台より評論文を読んだ方が効率的にしかも冷静かつ客観的に自分の思想を磨くことができる。もし舞台で原発問題を扱うなら、例えば、原発が存続した利権構造とそれをゆるす社会がいかに観客を含め多くの人々の日常生活につながっているか、そんなことを描きたい。日常生活であることが、こんな風に社会と繋がるのだというように。具体的な事象を分析するより、その事象を生んだ根本を扱うことに舞台は優れていると思うのだ。そういう根本を扱う舞台は大好きで、まあそんなのを上演してきた。それは、努力したと思う。・・・でもそれだけ。今、私が問題にしているのは、演劇人としてというよりも、市民として行動できてきたかと言うこと。ご立派な理念がありながら、何にもしてこなかったのだ。そんな理念、何になる。だから、社会的な舞台を上演したからと言って、免罪符になるわけではない。
原発問題に関しては、1回かそこら美浜原発の問題についてメールしてくれた友人の署名運動に署名したくらいである。あとは、心の中で反対し、出来るだけ電気を使わず(節電能力は自慢できます!)、それこそ暖房も冷房もなく生きてきた(これは暖房冷房を使わせてくれなかった母親のおかげ)。要するに、人と関わらない、自分個人で出来ることをしていただけ。私は本当にいつもそうなのだ。人と摩擦を一切起こさない自分単体で出来ることをせっせとしているだけなのだ。思想も理念もそのために使っているだけだ。本当に自分の世界に埋没している・・・
長くなりましたが、舞台はどんな舞台でもいいと思う。心理的なものでも、官能的なものでも、享楽的なものでも、哲学的でも、政治的でも。表現者が今問題だと思うもの、今必要だと思うものを上演すればいいわけでして。私だっていつも社会的なものをしてきたわけではないし、社会的なものがしたいわけでもない。ただ、まず、演劇人である前に、一人の社会を構成する一存在として、生活費を稼ぐのと同様に当たり前に「政治活動」をしたい。(従来の政治活動と同じかどうかは分からない。政治に関わる活動、といったところだが、あえて「政治活動」という言葉を使う。でないと「政治活動なんてやーだ」を言い訳に私はまた行動することから逃げ出しそうなのだ。)
で、デモに参加するときも、なんか抵抗があって、いつでも逃げ出せられるようにとか考えていた。で、参加してどうなったかというと、まあ、当然ながら何もなかった。ほっとした。ただ歩き回って、途中のどが渇いたら列から離れてコンビニで飲み物買って(たくさんの人が買っていた。万単位で人が集まったから、かなりの店の売り上げに貢献しただろう)、終わったら解散して。警察の人にご苦労さまでした、お世話になりましたと声をかけてしまった。いや、つい癖で。少人数のグループで参加した人たちは、解散後飲みに行こうかとか声を掛け合っていたから、これまた周囲の飲食店の売り上げに貢献しただろう。まだ歩きながら、「原発やめろー」とか声を張り上げるのには抵抗がある。慣れていないし恥ずかしい。スポーツ観戦での応援だって恥ずかしくってなかなか出来ない。人の尻馬に乗ってちょっとするだけだったのだから。それでも、ただ歩くだけでも、アピール力はあるのではないか。行動するのは労力と時間を費やすのだから、単に内面で思っている以上にパワーがいるのだ。
今までの自分を変える第一歩である。これまでは、自分の考えをしっかり持つことは大切だが、政治「運動」はカンベンして、と思っていた。でもね、そうやって政治活動をしないで、単に内面を磨いているだけでは何にもならないんだよな。自分の思想を磨いて、周囲の人と会話(ええ、対話まではいっていなかったと思う)しても、所詮人は人、我は我。全く何もしなかったに等しい。まさに傍観者であった。傍観者を告発する舞台(例えば「お前にも罪がある」とか)を上演しながら、傍観者になっていた。教員時代、授業で生徒が自己の思想を磨くための材料を提供したけど、行動するよう促したり、行動の仕方について例を挙げたりしなかった。それは出来るわけがなかった。自分自身、行動の仕方を知らなかったのだから。今だってどうすればいいのか良く分かっていない。デモ、が何とか思いついたのである。しかしこれもいろいろと実践あるのみだろう。実践して、失敗して、工夫して、でも行動し続けること。実践と失敗の繰り返しという意味では恋愛と一緒だったりして・・・。・・・はあ。
社会的な舞台も上演してきた。(政治的ではなかったと思う、客観的に見て。)ただ、舞台とは、いくら社会問題を扱ってもそれそのものを直接的に扱うのに有効な手段とは私は思っていない。例えば原発問題なら、原発の具体的な危険性、利権、歴史などを扱うなら、舞台より評論文を読んだ方が効率的にしかも冷静かつ客観的に自分の思想を磨くことができる。もし舞台で原発問題を扱うなら、例えば、原発が存続した利権構造とそれをゆるす社会がいかに観客を含め多くの人々の日常生活につながっているか、そんなことを描きたい。日常生活であることが、こんな風に社会と繋がるのだというように。具体的な事象を分析するより、その事象を生んだ根本を扱うことに舞台は優れていると思うのだ。そういう根本を扱う舞台は大好きで、まあそんなのを上演してきた。それは、努力したと思う。・・・でもそれだけ。今、私が問題にしているのは、演劇人としてというよりも、市民として行動できてきたかと言うこと。ご立派な理念がありながら、何にもしてこなかったのだ。そんな理念、何になる。だから、社会的な舞台を上演したからと言って、免罪符になるわけではない。
原発問題に関しては、1回かそこら美浜原発の問題についてメールしてくれた友人の署名運動に署名したくらいである。あとは、心の中で反対し、出来るだけ電気を使わず(節電能力は自慢できます!)、それこそ暖房も冷房もなく生きてきた(これは暖房冷房を使わせてくれなかった母親のおかげ)。要するに、人と関わらない、自分個人で出来ることをしていただけ。私は本当にいつもそうなのだ。人と摩擦を一切起こさない自分単体で出来ることをせっせとしているだけなのだ。思想も理念もそのために使っているだけだ。本当に自分の世界に埋没している・・・
長くなりましたが、舞台はどんな舞台でもいいと思う。心理的なものでも、官能的なものでも、享楽的なものでも、哲学的でも、政治的でも。表現者が今問題だと思うもの、今必要だと思うものを上演すればいいわけでして。私だっていつも社会的なものをしてきたわけではないし、社会的なものがしたいわけでもない。ただ、まず、演劇人である前に、一人の社会を構成する一存在として、生活費を稼ぐのと同様に当たり前に「政治活動」をしたい。(従来の政治活動と同じかどうかは分からない。政治に関わる活動、といったところだが、あえて「政治活動」という言葉を使う。でないと「政治活動なんてやーだ」を言い訳に私はまた行動することから逃げ出しそうなのだ。)
2011-04-08
原子力発電
日本は歴史的に常にエネルギー政策に失敗してきたと思う。典型例が第二次世界大戦である。そして今回も又、失敗しているのだ。
上関原発のことは、恥ずかしながら3.11で広島に疎開して初めて母親から聞いた。本当に何も知らなかった。知ろうとしていなかった…。「だって、地元の人が作りたいっていうんよ。わたしも反対して、説明会を聞きに(上関へ)行ったけど、地元が作る、欲しいって言うんだもの。」この言葉は本当にショックだった。そして、「原子力発電に反対する人は上関から出て行け」という看板を見て、怒りを感じる。事故を起こしたら、上関だけではすまないのに。まさしく、地域エゴ。今までは、田舎の人が嫌々押しつけられてきた、地元の人の必死の抵抗にもかかわらず、都会のエゴで押しつぶされたと思っていた。甘かった。彼らはカネほしさに、自分たちのこと自分たちの生きている間のことしか考えないのだ。上関から出て行け、外の地域は関係ない、などよく言えたものだ。事故があったとき、中国電力と上関が責任を取ってくれるのだろうか。たとえば、東京の水が一時乳児摂取規制値を超えたとき、各自治体が乳児のいる家庭に水を配った。そのようなことを上関と中国電力がしてくれるのか。
と、感情的なことを書いたが、まず、祝島の人々が漁業補償の受け取りを拒否してずっと原子力発電所を作らせないように活動していることは書いておきたい。多分、上関も全員が推進派ではなく、阻止したいが阻止の声を上げると村八分になり生きていけなくなる人もいるのだろうが。原子力発電所の建設阻止を支援する人が全国から集まっているのだが、それが推進派からすれば「よそ者」が口を出すように思えるのだが、残念ながら原子力発電所は事故があったとき、被害は広範囲に広がる上、保障を国の予算でしなければならない。国民の税金が使われるのだから、全国の問題である。
本当は大枠で考えないといけないのではある。過疎化が進み、過疎まで行かなくても人口が少なく都市部との落差があり、なんとかして現金収入になる産業を作りたいのだろう。その状況に電力会社(とそれを後押しする国策)がつけ込んでいるのだが。
だが、つい「原子力発電に反対する人は上関から出て行け」などという看板を見ると、上関の推進派に、それはエゴだと言いたくなる。
電力は余っている、特に中国電力は余っていて、関西電力に買ってもらっている状況である。むしろこの余っている状況を活かして、持続可能エネルギーに変換していけばいいのに。どうせなら、過疎地に風力や潮力や太陽光発電所を作ればいいのに。
大体、安全なら交付金なんて要らないはずだ。産業を呼べるんだから、それだけでいいだろう。原子力発電所が出来てもう40年になる。出来はじめた当初は不安でいやがられるのでその「迷信」に対抗すべく交付金を出すこともあるだろう。だが、こんなにたっても、「安全」に疑問を持たれるということは、原子力産業の負けではないか。きちんと安全に疑問を持たれないようにしてから、原子力発電所を作るべきではないか。交付金なしでは引き受けてもらえない産業など必要ないはずだ。
上関原発のことは、恥ずかしながら3.11で広島に疎開して初めて母親から聞いた。本当に何も知らなかった。知ろうとしていなかった…。「だって、地元の人が作りたいっていうんよ。わたしも反対して、説明会を聞きに(上関へ)行ったけど、地元が作る、欲しいって言うんだもの。」この言葉は本当にショックだった。そして、「原子力発電に反対する人は上関から出て行け」という看板を見て、怒りを感じる。事故を起こしたら、上関だけではすまないのに。まさしく、地域エゴ。今までは、田舎の人が嫌々押しつけられてきた、地元の人の必死の抵抗にもかかわらず、都会のエゴで押しつぶされたと思っていた。甘かった。彼らはカネほしさに、自分たちのこと自分たちの生きている間のことしか考えないのだ。上関から出て行け、外の地域は関係ない、などよく言えたものだ。事故があったとき、中国電力と上関が責任を取ってくれるのだろうか。たとえば、東京の水が一時乳児摂取規制値を超えたとき、各自治体が乳児のいる家庭に水を配った。そのようなことを上関と中国電力がしてくれるのか。
と、感情的なことを書いたが、まず、祝島の人々が漁業補償の受け取りを拒否してずっと原子力発電所を作らせないように活動していることは書いておきたい。多分、上関も全員が推進派ではなく、阻止したいが阻止の声を上げると村八分になり生きていけなくなる人もいるのだろうが。原子力発電所の建設阻止を支援する人が全国から集まっているのだが、それが推進派からすれば「よそ者」が口を出すように思えるのだが、残念ながら原子力発電所は事故があったとき、被害は広範囲に広がる上、保障を国の予算でしなければならない。国民の税金が使われるのだから、全国の問題である。
本当は大枠で考えないといけないのではある。過疎化が進み、過疎まで行かなくても人口が少なく都市部との落差があり、なんとかして現金収入になる産業を作りたいのだろう。その状況に電力会社(とそれを後押しする国策)がつけ込んでいるのだが。
だが、つい「原子力発電に反対する人は上関から出て行け」などという看板を見ると、上関の推進派に、それはエゴだと言いたくなる。
電力は余っている、特に中国電力は余っていて、関西電力に買ってもらっている状況である。むしろこの余っている状況を活かして、持続可能エネルギーに変換していけばいいのに。どうせなら、過疎地に風力や潮力や太陽光発電所を作ればいいのに。
大体、安全なら交付金なんて要らないはずだ。産業を呼べるんだから、それだけでいいだろう。原子力発電所が出来てもう40年になる。出来はじめた当初は不安でいやがられるのでその「迷信」に対抗すべく交付金を出すこともあるだろう。だが、こんなにたっても、「安全」に疑問を持たれるということは、原子力産業の負けではないか。きちんと安全に疑問を持たれないようにしてから、原子力発電所を作るべきではないか。交付金なしでは引き受けてもらえない産業など必要ないはずだ。
2011-04-07
3.11
3.11以降の日本と以前の日本は大きく変わると言われた演劇人がいたが、果たしてそうだろうか?そうなってくれるだろうか?そりゃあ、少しは変わるだろうが、結局「粛々と」ただ日常が過ぎているだけではないか? 「天罰」とほざいた割には反省しない人がまた知事に選ばれるような所だ。(多分、日本という国への「天罰」で、震災を受けた人々は犠牲者と言いたいのだろうが、だったら、政治をになう自分に対する「天罰」と言うことになる。自己反省するならそれを行動に出してほしい。何他人事のように言ってるんだよ。)どうせならこの反省を活かして、東京に原発を誘致して、都民の投票で決定したい。誘致するのは知事、決定するのは都民というところがポイント。
実は3月13日から4月6日まで広島に疎開していたのだ。福島第1原発が落ち着いたわけでもないのに東京に戻るなんて愚かだなと思うかもしれないが、いろいろ調べて最悪の事態の時にどうすればいいか行動指針が立てられたので戻ってきたのだ。
初めは疎開する気なんて毛頭無かった。第一バイト先に悪いし、何よりも自分だけ逃げるというのが許せなかった。ここ(東京)で苦労している人もいるのに…。だが待てよ、東京に残っていて何が出来るというのだ。私は医療従事者ではないので、いなくなると他人の命に関わるわけではないし、いくら節電の鬼(私はケニヤの山奥で電気のない((つまり水道もない))ところで生活をしたことがあるからかなり強い)だからといって、全く食料も水も消費しないわけにはいかない。東京の危なさは人口密集地帯であることだ。何かあったときは少しでも人が少ない方がいい。
それに危機管理能力。原発がどうなるか分からない状況で、政府の「ただちには影響はございません」を鵜呑みにしていいのか? 本当は信じたい。大丈夫だって安心したい。不安感を無視して日常を繰り返していたい。だが、こういうときこそ「冷静に」「パニックにならずに」判断すべきではないか。政府が言っていることが正しいのかどうかを。隠された情報はないのか?身を守るために何をする必要があるか?後から政府の文句を言っても取り戻せない物はたくさんある。
大幅に減ったとはいえ多少有ったバイトを断るのは本当につらかった。しかし、頼れるのは自分の判断。バイト先も守ってはくれない。最悪の事態を考え、どう行動するか。想定外のことが起きたとき、それは対処できることか、対処できないことか。想定外のことが起きてもぎりぎり生きていくようにすることが生きる力であって、想定外のことが起きたら「終わり、仕方ない」というのは思考停止である。(想定外と言っても「明日地球が爆発したら」みたいな空想的なことを言っているのではない。現実的な想定外だよ、もちろん。)
どこのメディアも最悪の事態とそのためにどういう準備をしたらいいか、どうなったら逃げ出すべきか報道してくれず、本当に困った。インターネットで探しに探して、スエーデンの物理学研究所の山内さんのサイトと、videonewsの番組「あえて最悪の事態を予想する」を見つけて、やっと東京へ戻れると思ったのだ。本来なら政府が積極的に最悪の事態とその対処方法と政府がどこまで対処できるかを前もって示すべきなのである。そこから一人一人が自分の状況を鑑みて判断して行動する。個人個人事情が違うのだから、皆同じにする必要なんか無いのだ。ただ個人の判断を尊重すべきだけだ。
政府が最悪の事態の対処方法を示せないのは、「原発は安全」ということを国策として強力に推し進めてきたからだろう。国策として「甚大」なほど強力に推し進めてきたのだ。だが、今回の事故で後手後手に回った対応を見ると、この安全性を本当に心から信じ切っていた様である。この科学の発達した現代、「絶対に安全な物はない」ということは当たり前であろう。科学的事実である。「原発は絶対安全」なんてまるで「神風がふいて日本を守る」と同レベルの「信仰心」である。万が一事故があった場合を考え、それぞれの事故のレベルでどういう対処をする予定だったのか、マニュアルを作っておくべきだった。チェルノブイリ級(レベル7)はもちろんそれ以上も。どこまでの段階だと対処できるのか示すべきなのだ。
この状態になっても稼働している原発があるのが不思議である。特に七〇年代に出来たものや、活断層の真上のもの(浜岡原発)も。そして、いまある原発が事故を起こしたときどういう対処をするか、それぞれのレベルにあわせて示すべきである。事故対処マニュアルの公開を地元の人々は要求すべきである。電力会社は安全性を強調するがそれは当たり前である。事故を起こしてもらっては困る。しかしこの世には絶対はないのだ。だから、事故が起きたとき、電力会社がどこまでするのかを示すべきだ。そして、誘致した地元はどこまで負担するのかしないのかも示してほしい。私が地元の人なら真っ先に知りたいのはそこ、事故の時の具体的な対応と保障だ。それを知ってから、そこの原子力発電所を存続させるか廃止にするかを決めたい。日本全国の電力会社は一刻も早く各事故レベルの対応策と保障を示すべきだ。東電に習う必要はない。自分の電力会社がどうするか、自分で考えて示せ。
法律で守られているから、事故の時は国が守るとのことだが、電力会社がどのくらい持ち、国がどのくらい持つのか示してほしい。金額によっては、1地域の問題ではなくなるのだから。
実は3月13日から4月6日まで広島に疎開していたのだ。福島第1原発が落ち着いたわけでもないのに東京に戻るなんて愚かだなと思うかもしれないが、いろいろ調べて最悪の事態の時にどうすればいいか行動指針が立てられたので戻ってきたのだ。
初めは疎開する気なんて毛頭無かった。第一バイト先に悪いし、何よりも自分だけ逃げるというのが許せなかった。ここ(東京)で苦労している人もいるのに…。だが待てよ、東京に残っていて何が出来るというのだ。私は医療従事者ではないので、いなくなると他人の命に関わるわけではないし、いくら節電の鬼(私はケニヤの山奥で電気のない((つまり水道もない))ところで生活をしたことがあるからかなり強い)だからといって、全く食料も水も消費しないわけにはいかない。東京の危なさは人口密集地帯であることだ。何かあったときは少しでも人が少ない方がいい。
それに危機管理能力。原発がどうなるか分からない状況で、政府の「ただちには影響はございません」を鵜呑みにしていいのか? 本当は信じたい。大丈夫だって安心したい。不安感を無視して日常を繰り返していたい。だが、こういうときこそ「冷静に」「パニックにならずに」判断すべきではないか。政府が言っていることが正しいのかどうかを。隠された情報はないのか?身を守るために何をする必要があるか?後から政府の文句を言っても取り戻せない物はたくさんある。
大幅に減ったとはいえ多少有ったバイトを断るのは本当につらかった。しかし、頼れるのは自分の判断。バイト先も守ってはくれない。最悪の事態を考え、どう行動するか。想定外のことが起きたとき、それは対処できることか、対処できないことか。想定外のことが起きてもぎりぎり生きていくようにすることが生きる力であって、想定外のことが起きたら「終わり、仕方ない」というのは思考停止である。(想定外と言っても「明日地球が爆発したら」みたいな空想的なことを言っているのではない。現実的な想定外だよ、もちろん。)
どこのメディアも最悪の事態とそのためにどういう準備をしたらいいか、どうなったら逃げ出すべきか報道してくれず、本当に困った。インターネットで探しに探して、スエーデンの物理学研究所の山内さんのサイトと、videonewsの番組「あえて最悪の事態を予想する」を見つけて、やっと東京へ戻れると思ったのだ。本来なら政府が積極的に最悪の事態とその対処方法と政府がどこまで対処できるかを前もって示すべきなのである。そこから一人一人が自分の状況を鑑みて判断して行動する。個人個人事情が違うのだから、皆同じにする必要なんか無いのだ。ただ個人の判断を尊重すべきだけだ。
政府が最悪の事態の対処方法を示せないのは、「原発は安全」ということを国策として強力に推し進めてきたからだろう。国策として「甚大」なほど強力に推し進めてきたのだ。だが、今回の事故で後手後手に回った対応を見ると、この安全性を本当に心から信じ切っていた様である。この科学の発達した現代、「絶対に安全な物はない」ということは当たり前であろう。科学的事実である。「原発は絶対安全」なんてまるで「神風がふいて日本を守る」と同レベルの「信仰心」である。万が一事故があった場合を考え、それぞれの事故のレベルでどういう対処をする予定だったのか、マニュアルを作っておくべきだった。チェルノブイリ級(レベル7)はもちろんそれ以上も。どこまでの段階だと対処できるのか示すべきなのだ。
この状態になっても稼働している原発があるのが不思議である。特に七〇年代に出来たものや、活断層の真上のもの(浜岡原発)も。そして、いまある原発が事故を起こしたときどういう対処をするか、それぞれのレベルにあわせて示すべきである。事故対処マニュアルの公開を地元の人々は要求すべきである。電力会社は安全性を強調するがそれは当たり前である。事故を起こしてもらっては困る。しかしこの世には絶対はないのだ。だから、事故が起きたとき、電力会社がどこまでするのかを示すべきだ。そして、誘致した地元はどこまで負担するのかしないのかも示してほしい。私が地元の人なら真っ先に知りたいのはそこ、事故の時の具体的な対応と保障だ。それを知ってから、そこの原子力発電所を存続させるか廃止にするかを決めたい。日本全国の電力会社は一刻も早く各事故レベルの対応策と保障を示すべきだ。東電に習う必要はない。自分の電力会社がどうするか、自分で考えて示せ。
法律で守られているから、事故の時は国が守るとのことだが、電力会社がどのくらい持ち、国がどのくらい持つのか示してほしい。金額によっては、1地域の問題ではなくなるのだから。
2010-10-17
キュープリック様
今、キューブリック監督作品にトチ狂っている。博士の異常な愛、時計仕掛けのオレンジ、フルメタルジャケット、現金(ゲンナマ)にからだを張れ、そのほかどれも面白い。ただ、2001年宇宙の旅、は私の好みではない。発表された当時はあの映像美と音楽は素晴らしかっただろうし、未来への希望と警告という意味でも面白いが、ドラマとして面白く無い。歴史的な価値は高いだろうが。
まず、時計仕掛けのオレンジで素晴らしいのは、素晴らしい風刺である。鋭く毒のある風刺を、コミカルに、丁寧に繊細に表現している。映像は美しくカッコ良く、キッチュで少しチープである。少しチープというのがポイントである。チープだから笑えるのだ。もしかすると、発表当時はただかっこよかったかもしれない。あの美しく描かれた暴力(語り手アレックスはドラッグをして気持ち良く暴力をしてるので美しく見えるのは当然なのだが)を真似する人がでたそうなので。ただ現代からすると、衣装や小道具などがややチープなので、距離を置いて観ることができるのだ。また、アレックスの妄想にも色々ツッコミを入れられる。あんなにきれいに都合よくガラスが割れるかっ、とか、おっ男の大事な所はしっかりガードしているなかなか合理的な服だね(失礼!)とか。私は時計仕掛けのオレンジで何度も笑ったぞ。
キューブリック監督の作品が好きなのは、その距離感である。登場人物と一体化するのではなく、距離を置いて自分の目で見つめる所。音楽の使い方もそう。状景に対して、別の視点をもたらす。ある事柄を批評していると言ってよい。
演技も多くの映画に見られる「現実世界で実際にそこで起きていてそれを覗き見ている」様なものではなく、どこか歪めたり誇張している。それがまた面白いのだ。(博士の異常な愛ではそれが顕著である)
フルメタルジャケットはベトナム戦争を題材にした物だが、ベトナム戦争を描くというより、軍隊という全体主義に麻痺し、戦争に麻痺する人間を見事な風刺を使って描いている。戦闘シーンは大したことない映画(戦争の生命および器物の破壊力を表現したいものではないので)なので、舞台にも向いているのではないか。
最後のミッキーマウスマーチなど本当に最高!あのアホらしい程単純に明るい曲と言い、歌詞が皮肉になる点といい、アメリカ帝国主義(資本主義)を見事に攻撃している。
舞台化したいとおもいつつ、今ならベトナムではなくせめてイラクだろ、と思うと舞台化は現実的ではないなと思ってしまう。
何度も何度も見直したい作品である。映像はさほど好きではなかったのに、すっかりはまってしまった。
まず、時計仕掛けのオレンジで素晴らしいのは、素晴らしい風刺である。鋭く毒のある風刺を、コミカルに、丁寧に繊細に表現している。映像は美しくカッコ良く、キッチュで少しチープである。少しチープというのがポイントである。チープだから笑えるのだ。もしかすると、発表当時はただかっこよかったかもしれない。あの美しく描かれた暴力(語り手アレックスはドラッグをして気持ち良く暴力をしてるので美しく見えるのは当然なのだが)を真似する人がでたそうなので。ただ現代からすると、衣装や小道具などがややチープなので、距離を置いて観ることができるのだ。また、アレックスの妄想にも色々ツッコミを入れられる。あんなにきれいに都合よくガラスが割れるかっ、とか、おっ男の大事な所はしっかりガードしているなかなか合理的な服だね(失礼!)とか。私は時計仕掛けのオレンジで何度も笑ったぞ。
キューブリック監督の作品が好きなのは、その距離感である。登場人物と一体化するのではなく、距離を置いて自分の目で見つめる所。音楽の使い方もそう。状景に対して、別の視点をもたらす。ある事柄を批評していると言ってよい。
演技も多くの映画に見られる「現実世界で実際にそこで起きていてそれを覗き見ている」様なものではなく、どこか歪めたり誇張している。それがまた面白いのだ。(博士の異常な愛ではそれが顕著である)
フルメタルジャケットはベトナム戦争を題材にした物だが、ベトナム戦争を描くというより、軍隊という全体主義に麻痺し、戦争に麻痺する人間を見事な風刺を使って描いている。戦闘シーンは大したことない映画(戦争の生命および器物の破壊力を表現したいものではないので)なので、舞台にも向いているのではないか。
最後のミッキーマウスマーチなど本当に最高!あのアホらしい程単純に明るい曲と言い、歌詞が皮肉になる点といい、アメリカ帝国主義(資本主義)を見事に攻撃している。
舞台化したいとおもいつつ、今ならベトナムではなくせめてイラクだろ、と思うと舞台化は現実的ではないなと思ってしまう。
何度も何度も見直したい作品である。映像はさほど好きではなかったのに、すっかりはまってしまった。
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